2017/12/06 17:45
先日 職場の人が携帯で誰かと電話していたわけですよ
本人は周りに構わず話しているので別にあえて聞こうと思っていたわけではなかったのですが…
でも話の中でお金の額とかが出てくるとついつい むむっ?って気になりますわな
どうも法事をするのでお寺に払うお布施の額を身内の誰かと相談しているようです
3万でええか…とか 5万ぐらい出さなあかんかな…とか 結構真剣に悩んどるんです
だいたいこの辺の額で悩むことが多いと思うのですが
これは多分に世間体とか見栄とか義理とか そういう類のものなんでしょうけどね
寺に聞いたところで「お気持ちで結構です…」とだけ・・・
ほんまに気持ちだけでええわけないやんけ!そやからよけい悩むんじゃい!
うまいなぁ~ 人の心理を実にうまいこと突いとるわい
そういうことを煩わしく思う人達に答えて今やネットでその場限りの出張法要が手配できるんですよ
お布施も法要内容によって一律料金で悩むことがないんです
しかもその場限りなので檀家とかお寺との付き合いは不要
それならお経CD流すだけでええやん…と 管理人的には思ってしまいますけど(ᅙωᅙ)
世の中はどんどん変わりますな・・・いい意味でも悪い意味でも。。。
今回はお布施についての話をしたいと思います
「布施」という字の如くから考えるに
もともと仏道修行者はボロキレを継ぎ合わせた糞雑衣(ふんぞうえ)というものを着ていたのですが(パッチワークの原点とも言われています)
庶民たちが小マシな余り布を施したことがそもそもの意味なのでしょう
もちろん布だけではなく食物や生活必需品なんかもそうですが
資産家などは土地や建物を布施したりしました
ブッダの時代ではかの祇園精舎が代表的なものです
日本で布施と言っているものはサンスクリット語で「ダーナ」と言い
これが旦那(だんな)の語源になっています
意味的には施す人とか与える人とかです
檀家や檀徒の語源も同じくそこからです
現代の日本に於いてお布施をするというのは
葬式や法事でお寺さんに依頼してお坊さんにお経を唱えてもらいその後にお金を渡す
というのが一般的かつ圧倒的多数なケースでしょう
要するにお経を唱えてもらった見返りにお金を渡しているわけですが
実はこれはブッダ時代の初期仏教で言うと大きな間違いでして
スッタニパータという初期仏典に書かれているには
実際こういったケースの場合にはブッダは施しを拒否しています
「詩を唱えて得た食物を私たちは食うてはならない」
詩と表現しているのは教えのことで今で言うお経です
つまり教え(お経)を唱えてその見返りとしての施物は得てはならないということです
今の日本仏教はブッダがいけないと言ってることを当然のごとく普通にしているんですよね
管理人はこの一節を読んだ時 目から鱗が落ちました
Thank(≧∇≦)you! ブッダ...ですわ
これ 日本仏教界のエライ人たちに読んでもらいたい!
もっとも 知ってて触れていない気も大いにしますが・・・
で
このあとブッダは正しいお布施の仕方を説いています
ダメと言うだけでなくちゃんと根拠を示してフォローするのが仏教の良いところです
原訳文は表現がちょっとややこしいのですが
意味的には「何でもない時に施しを捧げよ」ということです
要するに 何かに対する見返り以外の随時ですね
現代日本で例にすると 自分の意思で何でもない時にお寺に行ってただ金品を寄進するだけ です
もちろん仰々しくノシに名前を書いたりはしませんよ...
ブッダはそれがすなわち自分の福田に種を撒き苗を植える行為であると言っています
では教えを説く側は何時説くのでしょうか
教えを説くのも随時であって それもまた期待するものでも見返りにするものでもないのです
ブッダは何でもない時にいきなり教えを説いたりしましたので
弟子や周りの人たちは常にブッダの発言に耳を傾けていました
また逆に意味の無いつまらない質問に対しては無言によって返しました
無言というのもひとつの答えであって ブッダならではの気遣いでしょう
「そんなつまらんこと聞いてる暇があったらしっかり修行せえ!」ってことですかね("^ω^)
庶民が出家者に対して物や財を施すことを財施といい
出家者が庶民に対して教えを説くことを法施といいます
現代の日本では法施という商品に対して財施という代金を支払う形で
お寺もお坊さんもすっかり経営化しているのが現実です
ひどいのになると意味の分からんお経だけ唱えてありがたい話のひとつもせず(できない)
ちゃっかりお金だけいただいて帰る・・・まさにボウズ丸儲けですね (*`艸´)ウシシシ
それならばと前述のネット坊主なんかもぜんぜんありですわな
既存の寺院は客を取られていい気はしませんがどちらもやっていることは同じですよ
まあ 日本人らしい合理化システムといえばそれまでですが…
何の分野でもそうですが合理化が過ぎると質が落ちるんです そして腐るんです
何故って そこに心が入らなくなるためです
近ごろ連発する日本企業の不正等はまさに合理化のシワ寄せでしょうね
布工房ののも心あるものづくり精神を忘れないようにと常々思っています
「分け与えることによって物惜しみにうち勝て」
ブッダのことばの一部です
物惜しみというのはまさに自我の現れそのものです
なので 誰かに施すことによって自我を少しずつ消していく
それが布施行という名の自己修行なのです
友達にお菓子を分けてあげるとか 街頭募金に寄付するとか
相手が親しい人であろうが見ず知らずの他人であろうが
たとえ僅かでも 何でもない時に自分から進んで施すことが正しいお布施なんです
分け与える=施すことの大切さはキリスト教や他の宗教でも説かれています
ということはこの行為は誰もが否定する余地のない絶対的な真理ということなんですね
ただ その清き精神を利用して私腹を肥やす悪徳教団も少なくありません
信仰は自由ですが 今回の談義が良い意味で参考になればと願っております
くどいようですが お布施とは誰かに言われてするものではありません
それによって幸せになれるとか病気が治るとか そんなものでは決してありません
あくまで 自分の中にある自我を消すための 誰にでも手軽に出来る修行なだけです
最後に 布施行というのは物やお金を施すことだけではないです
ウィキペディアから一部抜粋しましたのでご参考まで
眼施:好ましい眼差しで見る。
和顔施(和顏悦色施):笑顔を見せること。
言辞施:粗暴でない、柔らかい言葉遣いをすること。
身施:立って迎えて礼拝する。身体奉仕
心施:和と善の心で、深い供養を行うこと。相手に共振できる柔らかな心。
床座施:座る場所を譲ること
房舍施:家屋の中で自由に、行・来・座・臥を得させること。宿を提供すること。

その顔は癒しの施しですかね
和顔施・・・ですかね
それがチミの布施行ですかね (´^ω^`)
管理人のひとり言