2017/08/18 20:31
お盆が過ぎ 夕時には秋の虫の声も聞こえ始めました
でもまだまだ残暑きびしいです もう一息がんばりましょう!
このあいだ テレビで池上彰さんがお盆のお話をされていました
お盆の本来の意味を知る人は少ないのですが
一般的にはご先祖を供養する仏教の行事ということになっています
ところがです
そもそもブッダは先祖供養について具体的に説かれたことはありません
実は日本に仏教が伝来する過程で
先祖崇拝を重視する中国の道教や儒教の要素がガッツリ織り込まれたのです
しかし ソースはどうであれ
お盆の行事をすることが先祖供養だと信じることは
それはそれで日本の良き文化であって否定はしません
ちなみに
日本仏教と決別した管理人はお盆には何もしません
ご先祖を敬う心はないのか!この外道が! とお叱りを受けそうなので
ちょこっと言い訳がましく述べさせていただきます
父母を敬いなさい
これはブッダのことばのひとつです
まるで小学校の道徳のように当たり前のことですね
そうなんです
実はブッダの教えとは どれも全部当たり前のことなんですよ
我々凡人は根本に「自我」があるのでその当たり前のことがしっかり見えていないのです
そこでです ちょっと落ち着いて考えてください(落ち着いとるワイ!)
いちばん近くて濃厚な先祖は父母です
親こそが代々の先祖の筆頭代表なのです
言い換えれば 父母を敬いなさいは先祖を敬うことなんですよ
これって立派な先祖供養の精神になってません?
それに加えて 前にも述べましたが
ブッダの教えは今を生きている者のためだけに説かれたものです
ぶっちゃけ 死んだもンは ど~でもええわい なノリです
で 以上の事から結論的に
真の先祖供養とは
今を生きている親を大切にしなさい...
という小学校の道徳な感じになってしまうのです
もっともこれは
何でも親の言うことをきいてあげなさい という意味ではないです
別々に暮らしていたとしても ふとどこかで想ってあげることですね
では 死んだ親はどうなん?
再度言います
ぶっちゃけ死んだらどうでもええんです
生きてる時に大切にしてたらええんです
ですが…
供養というものをもっともっと深い意味で考えるなら
死んだ者に対しては生前のことを想う のです
何でもいいんです
楽しかった思い出とか その人が言った言葉とか 感謝の気持ちとか
逆に中には 憎しみしかないわい!という人もいるでしょう
でも それも含めて「想う」ことがすなわち供養に繋がります
どう想うかはその人の心次第です
以前に引用したブッダのことばを思い出してください
ものごとは心にもとづき 心を主とし 心によってつくり出される・・・です
喜びの心は喜びの世界をつくり
憎しみの心は憎しみの世界をつくる
そういうことです
管理人の父親は18年前に70歳で他界しました
これから余生を楽しむという年齢です
でも 可哀そうとか思ったことはありません
なぜなら
父と過ごした思い出がずっと心に残っているからです
心の中で父は生き続けています
生きてる故人を想う・・・ブッダの短い一言にはそういう意味もあるんですね
8月の末 夏の終わりが父の命日です
別に何をするということはないのですが
ただ 毎年同じことを想っています
その中には
生きてる時にもっとふれ合っていればよかったな…
という反省の想いもちょっぴりあります

ちゃんと とーちゃんを想っとるんか?チミは
どうせ
なんかちょーだーい やろ
管理人のひとり言